He wants you to be happy

TKエンターテイナーとは、俳優、ミュージシャン、お笑い芸人、バケツドラマー・ダックマンと多彩な方面から、
世界を旅し人々を笑わせるエンターテイナーである!

彼の生きるミッション!? - ただあなたを幸せにする事!

Who is TK Entertainer?

TKエンターテイナーは日本出身。日本では、お笑い芸人、俳優、コスプレイヤー、ペンスピナー、ミュージシャン、マジシャン、バルーンアーティストとして知られている。

さらに彼は、ダックマンとして海外で知られ、ダンス、歌、バケツドラミングを世界中の道やステージで行なっている。

彼の旅はオーストラリアから始まった。彼は旅をしながら世界中一人一人の人々を楽しませては、笑いに包む!

Comedian-TK

11歳の頃から吉本NSC養成所に通い、ツッコミ・ボケ・コント・漫才と7年間その腕を磨いてきた。
今では、特化された自虐ネタで人々を笑いに誘う。さらに高校生お笑いグランプリなどでも多々優勝を納めた形成は今でも語り継がれている。
彼は現在英語でスタンダップコメディアンとしても活動中。

Duckman-TK

真っ黄色な姿に身を包み、道に現れたのはダックマン!
ダンス、歌、バケツドラムと笑わせるためならもうなんでもアリ!忙しい街、色気ない街に彩りを与えあなたを笑いに包む!
彼の止められないパワーと笑顔は、あなたの次の一歩を踏み出す手助けをするかも。

Actor-TK

NHKバッテリー、チーム元キャプテン「野々村」役、出演。その他にも様々なCMやドラマ、映画などに出演し腕を磨いてきた。彼の持つ多彩な顔は俳優活動にも功を奏する。

Musician-TK

彼のマルチタレントはここで終わらない。ギター、ヴォーカル、ドラム、ピアノ、ベース、DJと全ての楽器をその器用な手で取り扱う。
2015年には、TKエンターテイナー率いる、バンド「Wallop」は、オリジナルソング「オモチャ箱」をリリースし、Sony Next Generationで最も票を獲得した。
さらに彼はDJも行なっており、彼のリリースした「新感覚・EDMコメディ・ディペンズオンゴッド」はSound cloudにもアップされている

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Why does he want you to be happy ?

Q旅の経緯・キッカケ

まず私は家族というものの暖かみを知りません。
1993年、8月7日、青森県で産まれました。祖父はヤクザ、祖母はその極妻であり、神経質障害者でした。祖父は祖母と結婚する時に、青森県で小指を落としました。
母は、飛び抜けた精神障害者でヒステリックと神経質を持ち合わせたサラブレッドでした。
ちなみに父親は、マザコンで風俗好きなどうしようもないニートでした。
二人は恋に落ち、青森県で僕の事を産みました。しかし、予測していなかった、いわゆる"できちゃった婚"というもので、僕を下ろそうと思っていた所、すでに十分にお腹の中で育ってしまっていました。なので、"人殺しの犯罪者になるか"、"産みたくない僕を産むか"の選択で、後者を選びました。
その後、二人の馬が合うことはなく、父は子供という責任を抱えられなくなり逃げてしまいました。
母のヒステリックがわかったのは、僕が産まれてから直後です。
母は僕が産まれてから二週間毎日泣き続けました。

以下、僕のブログを少し引用いたします。

『1993年8月7日』
その日に僕は、青森県平川市(現在は平賀市)に産み落とされた。

【体重・3210g】【身長・50cm】

その物は、なんの変哲もない健康な赤ん坊だったそうだ。

自分の誕生について、祖母に聞いた話しを主観で述べる。
僕が誕生してから家族は泣いた。来る人来る人、手を握り僕を抱きしめ喜びの涙を流した。斯く言う僕も、よく泣いていた。今考えれば、あれだけ人の事を考えていない時代は無かった。僕もひたすら泣いた。感情の赴くままに。僕が産まれてから、早2週間が経った。
時というものは恐ろしい物で、哀しみや辛さを消し去ると共に、喜びや嬉しさも奪っていく。
皆が泣き止み、誕生を喜び終えた。
ようやく世界の一部になった感覚がした
しかし、母だけは泣き続けた。
来る日も来る日も。小さな病院であった。
僕が泣くと、それに呼応するように母も泣く。夜中のナースコールを聞きつけ、看護婦さんが母の元へ走った。これで何回目だろう。
同室の患者さんには、さぞ迷惑だっただろう。
「どうしたんですか?
○○さん?」
(この頃、僕の名字は中村では無かった)
母は泣き続けている。部屋はとても汚い。
「嬉しいのは分かりますけどね?ここは病院ですから。。
他の子にも迷惑が掛かっちゃいますし、お母さんしっかりしましょう?」
そう言うと、母は自らの震える手を強く握り
唇を噛み、静かな声で泣いた。暫くすると看護婦さんは母に尋ねる

「どうしてそんなに泣いてるんですか?」
空気が凍った.
一瞬で状況が変化した
暫くすると
泣くのを辞めた母が
大声で叫んだ
「こいつがうるさくて眠れねぇんだよ!!!!!!!!!!!!!!」
ひどく雨が降っていたのを覚えている
強く震えた母の手は、小さく細い赤ん坊の首を握った。
その手はとても冷たかった
僕は泣くのを止めた。
止めざるを得なかった
気が付くと母と僕は別々の部屋にいた
首の骨が折れ、呼吸が出来なくなった僕は、救急治療室に運ばれたようだった。
このくらいの出来事になると覚えているのだろうか?

病室で丸まって泣いていた"僕"はきっと考えただろう。
産まれる予定のなかった僕は
出来ちゃった婚で誕生した僕は
偶然産まれてきた僕は
元レディースの曹長の子供の僕は

望まれて産まれて来なかったのだ。
邪魔で邪魔で、仕方ない。
憎くて憎くて仕方ない存在だったのだろう。

"九死に一生を得る"

とはこの事だろうか。

奇跡的に、生きた
生かされた僕は
それでも生きる事を諦めなかった

最近のニュースを見ていると、 生きていたのだから幸せな方なのだろう。

調べてみると母は、ひどく重い精神病だっったようで、子供とそばにいれないと判断され引き離された。

母は、22歳
現在の僕と同い年だ。

幼すぎる物体である僕は、それを飲み込むしか無かった。

そのまま"僕"は、病院で育てられる事になる。この頃の僕はまだ若く

【母に育てられない事を、哀しく思っていた】

ここまでが僕がこの世に産み落とされてから、1ヶ月の出来事。

兄弟が出来るのはもう暫く経ってからだ。

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ということで、僕は病院の施設で3歳になり、その後父と母が僕を病院から受け取りにきて、二人でまた子供を育てて再スタートしようという決断しました。
そして、無職だった父は、東京に出れば仕事が見つかるだろうと思い、僕たち3人は東京へ向かいました。

結論といたしましては、私が4歳のころに父と母は離婚しました。
僕もひどい虐待を受け、いすに縛りつけられて殴られたり、その状態でバルサンを炊かれたり、根性焼きをされたり、ナイフで腕を切られたりなど様々な仕打ちを受けました。

その頃に二人の妹が産まれました。
一人の女の子は、僕を置いて、ドライブに行った父と母が玉突き事故に会いまして、もうすぐ産まれる予定だった子供「りんちゃん」は圧迫されて体の形がおかしくなってしまいました。
僕はその頃4歳でしたので、一人で留守番をしながらぼーっとしていました。

そして未熟児で切開して産まれた私の妹は産まれて三ヶ月程度で生命維持装置の中で生き絶えてしまいました。

その後しばらく経ってもう一人の妹が産まれましたが、奇形児で産まれ六ヶ月ほどして亡くなってしまいました。というのも、父が仕事を初めて、始めて自分の力で得たお金に自惚れて風俗にハマってしまって性病を持ち帰ってきてしまったからでした。
母体感染という形で遺伝してしまったのです。

そして惜しくも二人の妹を亡くした僕はその母と父の衝撃からサンドバックのように虐待を受け続けました。それでも、どのような形でも、家から出ることがあまりなかった私は、いくらサンドバックでも必要とされることは嬉しかったのです。

その後二人は喧嘩離婚し、父は北斗の拳の漫画を全巻持って車に乗っていなくなりました。(それほど僕より、漫画が大事だったのでしょう。笑)

殴り合いの喧嘩をしている最中僕はいたたまれなくなってしまい、外に出てアパートの階段で座り込んで、植物状態のように固まっていました。

その時に聞こえた言葉は

「俺だってあんなの受け取りたくねぇよ!誰があんなの産めって頼んだんだよ!さっさと殺した方がよかったんだよ!!」

「私だって下ろしたかった!あんたの責任でしょ!ゆりかとりんが死んだのもあんたの責任!責任とってあのゴミ受け取れよ!」

それからして、父が走っていなくなり、それから父の顔を見ることは二度とありませんでした。そして母が僕に、こう聞いて来ました。

「ねえ、どうしたい?」

僕はただのサンドバックでしたので、意思を持っていませんでした。それからその足で直接都内にある施設に預けられたのです。

それから4歳から5歳まで施設で育った僕は、その中でもコミュニケーションの取り方に悩まされ、いじめを受けていました。里親制度もあったので、引き取りにくる里親が来るたびに絶対引き取られたくない。あのような思いは二度したくない。でももしかしたら、今度は違うかもしれない。と息を飲んでいました。

そして、5歳のある日母が僕を受け取りに来ました。社会のスティグマに耐えられなかったと言います。
5歳から6歳までは一人で保育園に通っていました。

楽しかったのか、つまらなかったのか、何も覚えていません。ただ通っていました。

3歳から6歳までほぼ一人暮らしでしたので、食べて良いものもわかりませんでした。
母は二週間に一度帰って来てはカップラーメンや、ポテトチップス、グミなどのスナックを置いていなくなりました。
次にいつ帰って来るかもわからないので最初の方は、食料が底をついてしまい困ってしまいました。そこで見つけたのが「ローソク」です。
カラフルに見えたローソクは子供の僕にとっては美味しそうに見えました。赤はチェリー味、緑はメロン味、黄色はレモン味、と子供にとっては最高でした。

それに僕はそのローソクを「魔法のお菓子」と呼んでいました。なぜなら、すぐにお腹がいっぱいになるからです。
その他にも公園に出ては、小さいラズベリーやツツジという花を食べ、幼少時代をしのぎました。

それから6歳、小学校に入りました。
そこで好きな食べ物紹介というコーナーで、ツツジとローソクと答えた僕はクラス中のみんなに笑われました。

なぜ笑われているのかなんて、わかりませんでしたが、
その時に気持ちがスカッとしたのも覚えています。

その時の、人を笑わせた時の初めての快感というのは今でもしっかりと覚えています。
それから人に必要とされたと強く強く願うようになりました。

そしてローソクが食べ物じゃないと知った僕はその日一日悔しくて悔しくて、吐き続けました。今まで2年程食べて来たのですから。誰も教えてくれなかったのですから。

それから、人を笑わせようと努力を重ねるようになりましたが、ある事件が起きました。隣の席の子が僕の数メートルしか離れていないマンションの同じ階であるということが発覚したのです。

それが嬉しくなって、その男の子と毎日7時になったら、外にでて今日あったことを話そうなどといった約束をしました。しかし、3ヶ月ほど経ったある日、彼はぱったりと姿を見せなくなったのです。

気になった僕は学校で何度も聞きました。どうして出てこないんだよ最近!どうしたんだよ!と
すると彼は困った顔で、「実はさ引っ越したんだ」と。

それなら仕方ないかと思い、引っ越した理由を聞きましたが、一向に答えてくれません。何度もしつこく聞いたところ鬱陶しそうな声で、

「毎日お前の叫び声がうるさくて、家族で迷惑してたんだよ!だから。あと、ごめん。もうお前とあんまり関わるなって言われててさ。じゃぁ。」

ということを告げられて、そこからあまり関わるというようなことはありませんでした。

そのきっかけを境に、自分が不幸でいるという事は他人に迷惑を掛けてしまうということに気が付き、そこから二度と笑顔を絶やさなくなりました。

そして誰かに認められたいという承認欲求だけが強く残りました。

その後、小学六年生に上がった僕は祖母の勧めで、吉本養成所NSCジュニアに入ることに決めました。人を笑わせるという事は僕にとって「自分が生きているという感覚を得る唯一の手段」だったのです。

そこから、俳優、ミュージシャン、お笑い芸人、と人を楽しませるためなら手段を選ばず様々な事に挑戦して来ましたが、何かが違うと突っかかっていました。

例えば、音楽のライブであればお金を払います。そこにいる人たちは皆笑顔ですが、そこにいる人たちは同時にお金が払える人です。
お笑いのライブにしろ、そうでした。

音楽の大会で、優勝、お笑いの大会で優勝。そしてNHK様ドラマバッテリー「野々村」役で出演など様々な事をしました。

そこから人を笑わせるため、認められるためには頭脳が必要だと思い、勉強(と、学費の為の10種類以上のアルバイト)に打ち込んだ大学生活を過ごしました。

認められたい人に認められるのではなく、不特定多数の人に認められ、目の見えない人、耳の聞こえない人、貧乏でライブにいけない人、忙しくて時間がないサラリーマン。そのような人のために始めたのがこの

「世界のエンターテイナーTK・Duckman 路上バケツパフォーマー」

です。道であれば、どんな人も通りますので全員を楽しませることができます。僕はストリートパフォーマンスを駅の前で行っているのですが、たった二時間で7万人もの人が通り過ぎている道だそうです。

オーストラリアの人は、優しくて足を止めてくれては写真や動画をとったり、笑ってくれてチップをくれたりもします。
僕の場合はお金が目的ではないので、人が心から笑ってくれた「真の笑い」というものを追求しています。

チケットなどで買い求めることが出来ないような、真の笑いがこの旅で見つけることが出来れば良いと思っております。
そして、僕が唯一生きていると感じることができる瞬間「スカッ」としたあの小学校一年生の「瞬間」をまた掴んで、不特定多数の人間にそれを共有して一日を少しでも楽しい日にしていただきたいのが僕の目的です。

あの時の衝動が僕を今でも突き動かしています。

オーストラリアを選んだ理由は特にありませんが、自分を全く知らない、全く違う人種の人間も巻き込んで笑わせたかったので世界に飛び出しました。
僕は大学で社会学というのを学んでいたので、(心理学に近いものだったのですが)外国の方の考え方、集団心理というものにすごく興味があり、多種多様国家オーストラリアを選びました。

カナダ、トロントも多様性に富んだ国です。とても楽しんで人を笑わせております。

Q旅の目的

この旅は心理学的な、言葉が通じなくても人を笑わせることができるのか、という「笑い」という事に焦点を当てています。

この人を笑わせる旅を通して、笑うことの偉大さ重要さ、を再確認したいと思っております。幼い頃に学びました、少しでも周りの人を幸せにしたい。僕に関わった人を少しでもハッピーにしてあげたい。という気持ちでこの旅を続けています。

旅というのはとても良いものです。
日本人の方はすでに高校・大学・社会人というエスカレーターができてしまっているので、抜けづらいとは思いますが、それでも世界に飛び出して今よかったと感じられます。

日本は少し堅苦しかったのかな、とも感じますし比べる対象がないというのも少し悲しい話です。かと言って、僕は他のバックパッカーさんと違いそんなにバンバン国を周れる程、お金に余裕はありませんし、何より自分の幸せにあまり興味がありません。

なのでその一つの地の、現地の人しか知らないようなレストランも知るくらいに溶け込みたいなぁと思い、最低でも半年などのステイを目標にしています。

人はいつでも笑っていられる訳ではありません。
人はいつでも諦めないで前に進める訳ではありません。

なので、たまには折れて、たまには諦めていいんだよ、自分のペースでなんて言葉をよく耳にします。しかし、諦める人が、「よし、また頑張ろう」と思うのは何かきっかけが必要です。そのきっかけというのは、何事にも立ち向かう努力して諦めないヒーローのような存在だと思っています。

もちろんリアルなヒーローなど存在しません。
しかし、僕がその努力をして底なしの笑顔で人の辛さや、人の限界のコップから溢れ出てしまった悲しみを吸い取ってあげたいと思っています。そう思い立ったのは小学生低学年の頃です。僕の姿を見て少しでも多くの人が「よし、また頑張ろう」と思ってもらえるように、努力を怠らず、何にでも立ち向かっていきたいと思っております。

なぜなら僕は生粋のエンターテイナーですから。